2011/12/27

2012年-マクロビオティックの変革

寒さが身に染みる今日この頃、今年も残り少なくなりました。
来年は日本人の意識が変わる年であると思われます。

今年の3.11という経験は私達に潜在意識の変化を与えました。
私達日本人は、2012年も更に多忙な年を過ごすことでしょう。

私達は従来の西洋医学と東洋医学が互いに補いあう、新たな変革の時代へと突入することを通じて、必然的に生き方も従来に捉われない社会的意識を持つのです。

失敗を覚悟で私達が社会的意識を持っていく必要がある中で、来年は更に若い人々を中心とした活躍が更に期待されます。

マクロビオティックは今まで「知識と情報」重視で左脳を使うことに重点が置かれていましたが、近年は「直感とインスピレーション」が重要視されています。

最近は成績にとらわれない子どもが増え、時代は「知識絶対視」から「直感・インスピレーション」へと確実にシフトしています。

来年は教育・医療が変わる「変革の年」となり、マクロビオティックにとっては「追い風の年」となることでしょう。

皆様、食べ過ぎにはくれぐれも注意して、健康で心穏やかに新年を迎えましょう。

物と精神の二重構造について

「物」は「心」で見る。

私達は「心」で精神世界を見て、「目」で物質世界を見ている。

精神文化は科学的観点から見て、いい加減なものとされてきた。

目で見るものは科学とすると、精神を見る事が出来なくなってしまう。

桜沢先生の仰ったように、夢も健康であれば「正夢」を見る。

身体が整った状態で自然に沿って生きていれば、正確な判断を下すことが出来る。

ゆえに食事は重要な「鍵」である。

2011/12/22

本能と欲望の話

人間は生まれたときに、既に死ぬ運命にある。

死なないための延命措置が科学の進歩のおかげで著しく向上しているが、誰が人間の生死を決めるのか。

本人が死にたくないと望む場合と、家族や友人、知人などが死んでほしくないと望む場合とでは話は違ってくる。死にたくないと望む場合、それを本人のエゴと呼び、死んでほしくないと望む場合、それもエゴとよぶ。いずれも自然界の摂理を違反しようと高らかに表明しているように感じる。そこで個個人の考えを他人に押し付けるという行為は権利を侵害と考える人もいるが、権利というのは人間が造り出した社会と法律という枠組みのなかで共に生きるために考え出した知恵であり、本来の個々の人間という存在に備わっているモノとは関係がない。そのモノの成り立ちとなっているのが宇宙の秩序であり、何故、人間は生きているのか、どこに向かっているのか、という問題に突き当たる。

人間と動物は違う。その決定的違いは母子の関係をみて一目瞭然である。動物の母子は産後しばらくするとその関係は断絶し、個々の個体としての生を歩む。確かに、我々人間の視点から観て類似の点を動物の母子関係にも発見することができるため、そのような意見に異を唱える人もあるかもしれないが、それはあくまで人間の視点からもものの考え方である。人間の母子における産後の関係は動物とくらべて非常にちかい。出産後の赤ん坊を母親はすぐ抱く。そのことで母子の心が通い合う。ところが、いわゆる人間の主観的見地からの証明により、産後、母子をすぐ引き離し、その心の通いを妨げるエゴが蔓延している。もちろん、そのような手段を取らない選択権は個個人にはあるが、その手段を歪曲化する形で誇大宣伝しているのが現状ではないか。我々は資本主義社会に生きている。資本主義社会は金がモノをいう社会である。その金を使い、当時に権利という法律のベールで覆い、あたかも民主主義の多数決の論理で大衆を盲目のまま扇動しているのが、その社会の本当の姿であろう。金融危機などやさしいものであろう、なぜならば、その行動はあきらかに、資本主義の醜い面を浮き彫りにしている。強欲資本主義とはよく言ったものである。

人間には欲望がある。その欲望を認めるところからスタートしなければ話は始まらない。問題はその欲望の足るを知るということである。それが足るのか足らないのか、その線引きは難しい。というのは本能と直感で感じる必要があるからである。言葉を使うようになったことが、人間から本能を奪うようになったという考えもある。言い訳をする知恵を身につけてしまったからである。

「あの人は本能のままに生きている。」

この表現を肯定的、否定的、どちらに解釈するのか?おそらく、上記の表現はあの人には理性がなくとんでもない人だと解釈する人が大半であろう。なぜか?それを知らずの内にそうであると思っている、あるいは思わされている。それが教育というものの本当の驚異であり、その教育の全てはまず母子との関係から、家庭からスタートする。

如何に教育が必要であり、重要であるか、母子との関係が大切であるか。

学校教育、現代医療、西洋科学に対し、短絡的な疑問を投げかけるのもどうかと思う。すべての人は元々一人であり、最初の共同体が家族である。一人の人の力で大きな変化を生みだすことは難しいが、協力すれば何とかなると考えるのは、あながち正しいのかもしれない。まずは、家族を大切に、家族の中の調和を大切に。そのために食卓を囲む事の重要性を今ほど、強調せざるを得ない時代はないのではないか?その表現自体、すでに古びたものとなってしまっているかもしれないが、本当に心から出た言葉というのはあながちシンプルかつ繰り返し述べられるものなのではないか?なぜなら、物事の本質は本来シンプルである、無の中に全てがあるからである。それを理解するためにマクロビオティックを実践する。その実践は個個人からスタートし、それを家庭の中で証明していかなければならない。One Peaceful Worldの実現は個個人の意識と家庭内の家族の教育と協力が不可欠であろう。家族でも難しい人間関係。それを全く違う家庭環境で育った他人と培っていく作業は、なんと難しいことであろうか。結婚は2人の間の問題だけではなく、脈々とした歴史を刻んできたお互いの家系の問題でろう。ただ、そこに2人の感情の交流がなければ、何もはじまらない。ちょうど出産後の母子関係のように。

2011/12/21

陰陽理論の本質

この宇宙は陰性な遠心力と陽性な求心力が交わり、離れるという変化の流れの中で形成されている。

元々は無であり全てがあるという色即是空、空即是色の般若心経の考え方に遡れる。

仏教はインドで生まれたといわれ、人類はアフリカからスタートしたと言われているが、本当は日本人が人類の祖であるのではないかという考えもある。

アメリカインディアンのホピ族の古い言葉には日本語とおなじ言葉もあり、なぜなのか、その理由を考えた場合、世界中の要人がはるか昔日本に集い、そこから世界各地に散らばっていったという竹内文書の考えも真かどうかは不確かだが、興味深い。

桜沢が唱えた陰陽理論の基本は元々、一つであった無から二つに物事を分け、その二つの根本的なエネルギーが陽性な求心力と陰性な遠心力であると定めた所からスタートする。

物事を陰性と陽性という二つの対立相補的なエネルギーに還元することで、物事の本質、すなわち無を捉えようというのが陰陽理論であり、その宇宙の秩序に逆らうことは秩序違反であり、それに従い流れに乗ることが秩序である。

物事を二つに分け、その対立相補性、confrontational complementarityを認め、全ての事象を無に帰していくことが陰陽理論であり、桜沢の唱えたマクロビオティックとは本来そのようなものである。

Macrobioticsにおけるマクロとは巨視であり、その含意は宇宙的視野、魔法のメガネをかけた世の中の見かたのことである。本来人間には魔法のメガネはいらない。なぜならば、魔法のメガネは物事の本質を本能に従って見極めるために必要とされるものであるからである。人間は大脳が異常に発達してしまったために、間脳の働きが弱まり、本来備わっている本能、直観力が著しく減退してしまった。現代教育、現代食物はそれを著しく助長した。

さらにMacrobioticsとは生物・生命を捉える。それから連想される言葉が身土不二であり、一物全体である。身土不二の英語の表現をロナルド・コーチのMacrobiotics:Yesterday and Todayを参考にすると、Body and Earth not twoと表現されていた。なるほど、そのまんまであるが、外国人には中々理解できないだろう。一物全体は案外理解しやすいかもしれない。海外ではWhole Grainとして全粒穀物は有名である。物事の本質をとらえれば、周辺的はさほどたいして重要ではない。陰陽理論がこの場合それである。

マクロビオティックをやっているかと聞かれた際に何を基にYES/NOと答えるだろうか?本質が陰陽理論なのであるから陰陽で物事を捉えているかがスタートであろう。ただ捉えているだけでは、しかし駄目である。実行してこそである。桜沢先生の実行力は徹底していた。MI塾時代、夜中の12時まで講義を行い3時には起床し原稿を書き、その後、5時になると窓と戸を開け、掃除を始めていた。MI塾とは本来そのようなものであり、知識偏重の私塾となっていては本末転倒である。桜沢先生は自らの陰陽理論、無双原理を証明するために、当時の最高権威であった東大医学部・法学部・物理学部を打ち破る必要があった。現代教育の最高最終地点である最高学府に挑戦状をたたきつけた桜沢先生のマクロビオティックがそれに迎合する形になってしまっているのには違和感がある。

宇宙の秩序の元は無であり、陰陽二極が生じ、それが交わりエネルギーが発生し、そのエネルギーが凝縮することで素粒子、元素となり、植物、動物、人間の生命が生じてきた。このシンプルかつダイナミックな家庭を母体はわずか10ヵ月で行う。それを奇跡と言わずして何と言おうか。

物事の本質は単純かつシンプルである。それを複雑怪奇にしてしまっているのは、ついにはニュートリノの発見にまで至り自らその首を絞めることになっている現代科学であろう。分析分析の行きつく先に見たもの、あるいはこれから見れるだろうと想定しているものは、物事の本質ではなく、その反対であろう。物事の本質は私達の周りにあふれている。だからこそ、空間が無であるのではなく、空間にこそ全てがあり、七色のスペクタクル全てがある。桜沢先生が分光器を使い、色を陰陽で分類し、紫を極陰性、赤を極陽性とした理由は、現象界で我々人間の判断力を狂わす最大の脅威は視覚という感覚器官の長にあると考えたため、その視覚を通じた判断の拠り所として色の陰陽を提供したのであろう。

松下政経塾の塾是は自ら考える人間を育てることにあるように思われる。松下幸之助を引き合いにだすまでもなく、桜沢は彼の時代において既にそれをMI塾という場において実践していた。自ら考えるためには問題の本質を捉えることが肝要であり、そのために陰陽というコンパスが必要である。マクロビオティックでは陰陽以外は不要であるが、陰陽五行論が流布している最大の理由は現代教育の延長線上にそれがあるということと、人間の性としての人支配欲があるからであろう。表面上いくら相手のことを想ってという表現で本質をオブラートでくるんでも、それは自らの欲求を満足させる行為以外の何物でもない。自己顕示欲などもっての他であろう。陰陽五行では相生と相克により宇宙に秩序があるとしているが、真のマクロビオティックはそれとは相いれないことを肝に銘じておくべきである。陰陽五行をマクロビオティックだと勘違いしている人々が多い現実には疑問を持たざるを得ない。

そのように考えてくると、陰陽とは自らの内に留め外との調和を図っていくためのものであり、陰陽五行とは外との関係において自らの手中内に他人を収めることにその本質があるように思われる。欲求と本能とは違う。人間はなんのために生まれて来たのか?本来の人間の姿とはどのようなものなのか?人間には欲求があることは事実であり、それを否定することはできない。それを認めつつも本能に目覚めて行くことが人間として生まれて来た本来の目的なのではないだろうか?否定するのではなく、認める。物事を違う側面から陰陽により捉える。マクロビオティックをそのように捉えて実行していくことが桜沢如一・里真先生や久司道夫・アベリーヌ先生、岡田周三先生、山口アルカン先生、松岡リベラル先生、田中カタリーナ先生、田中フローラ先生などのマクロビオティックの先輩方が日々実践していたことなのではないか?人間とは何か?その源泉を求めるために、是非、アレキシス・カレル著、桜沢如一訳「人間-この未知なるもの」の熟読をおすすめしたい。