2011/12/21

陰陽理論の本質

この宇宙は陰性な遠心力と陽性な求心力が交わり、離れるという変化の流れの中で形成されている。

元々は無であり全てがあるという色即是空、空即是色の般若心経の考え方に遡れる。

仏教はインドで生まれたといわれ、人類はアフリカからスタートしたと言われているが、本当は日本人が人類の祖であるのではないかという考えもある。

アメリカインディアンのホピ族の古い言葉には日本語とおなじ言葉もあり、なぜなのか、その理由を考えた場合、世界中の要人がはるか昔日本に集い、そこから世界各地に散らばっていったという竹内文書の考えも真かどうかは不確かだが、興味深い。

桜沢が唱えた陰陽理論の基本は元々、一つであった無から二つに物事を分け、その二つの根本的なエネルギーが陽性な求心力と陰性な遠心力であると定めた所からスタートする。

物事を陰性と陽性という二つの対立相補的なエネルギーに還元することで、物事の本質、すなわち無を捉えようというのが陰陽理論であり、その宇宙の秩序に逆らうことは秩序違反であり、それに従い流れに乗ることが秩序である。

物事を二つに分け、その対立相補性、confrontational complementarityを認め、全ての事象を無に帰していくことが陰陽理論であり、桜沢の唱えたマクロビオティックとは本来そのようなものである。

Macrobioticsにおけるマクロとは巨視であり、その含意は宇宙的視野、魔法のメガネをかけた世の中の見かたのことである。本来人間には魔法のメガネはいらない。なぜならば、魔法のメガネは物事の本質を本能に従って見極めるために必要とされるものであるからである。人間は大脳が異常に発達してしまったために、間脳の働きが弱まり、本来備わっている本能、直観力が著しく減退してしまった。現代教育、現代食物はそれを著しく助長した。

さらにMacrobioticsとは生物・生命を捉える。それから連想される言葉が身土不二であり、一物全体である。身土不二の英語の表現をロナルド・コーチのMacrobiotics:Yesterday and Todayを参考にすると、Body and Earth not twoと表現されていた。なるほど、そのまんまであるが、外国人には中々理解できないだろう。一物全体は案外理解しやすいかもしれない。海外ではWhole Grainとして全粒穀物は有名である。物事の本質をとらえれば、周辺的はさほどたいして重要ではない。陰陽理論がこの場合それである。

マクロビオティックをやっているかと聞かれた際に何を基にYES/NOと答えるだろうか?本質が陰陽理論なのであるから陰陽で物事を捉えているかがスタートであろう。ただ捉えているだけでは、しかし駄目である。実行してこそである。桜沢先生の実行力は徹底していた。MI塾時代、夜中の12時まで講義を行い3時には起床し原稿を書き、その後、5時になると窓と戸を開け、掃除を始めていた。MI塾とは本来そのようなものであり、知識偏重の私塾となっていては本末転倒である。桜沢先生は自らの陰陽理論、無双原理を証明するために、当時の最高権威であった東大医学部・法学部・物理学部を打ち破る必要があった。現代教育の最高最終地点である最高学府に挑戦状をたたきつけた桜沢先生のマクロビオティックがそれに迎合する形になってしまっているのには違和感がある。

宇宙の秩序の元は無であり、陰陽二極が生じ、それが交わりエネルギーが発生し、そのエネルギーが凝縮することで素粒子、元素となり、植物、動物、人間の生命が生じてきた。このシンプルかつダイナミックな家庭を母体はわずか10ヵ月で行う。それを奇跡と言わずして何と言おうか。

物事の本質は単純かつシンプルである。それを複雑怪奇にしてしまっているのは、ついにはニュートリノの発見にまで至り自らその首を絞めることになっている現代科学であろう。分析分析の行きつく先に見たもの、あるいはこれから見れるだろうと想定しているものは、物事の本質ではなく、その反対であろう。物事の本質は私達の周りにあふれている。だからこそ、空間が無であるのではなく、空間にこそ全てがあり、七色のスペクタクル全てがある。桜沢先生が分光器を使い、色を陰陽で分類し、紫を極陰性、赤を極陽性とした理由は、現象界で我々人間の判断力を狂わす最大の脅威は視覚という感覚器官の長にあると考えたため、その視覚を通じた判断の拠り所として色の陰陽を提供したのであろう。

松下政経塾の塾是は自ら考える人間を育てることにあるように思われる。松下幸之助を引き合いにだすまでもなく、桜沢は彼の時代において既にそれをMI塾という場において実践していた。自ら考えるためには問題の本質を捉えることが肝要であり、そのために陰陽というコンパスが必要である。マクロビオティックでは陰陽以外は不要であるが、陰陽五行論が流布している最大の理由は現代教育の延長線上にそれがあるということと、人間の性としての人支配欲があるからであろう。表面上いくら相手のことを想ってという表現で本質をオブラートでくるんでも、それは自らの欲求を満足させる行為以外の何物でもない。自己顕示欲などもっての他であろう。陰陽五行では相生と相克により宇宙に秩序があるとしているが、真のマクロビオティックはそれとは相いれないことを肝に銘じておくべきである。陰陽五行をマクロビオティックだと勘違いしている人々が多い現実には疑問を持たざるを得ない。

そのように考えてくると、陰陽とは自らの内に留め外との調和を図っていくためのものであり、陰陽五行とは外との関係において自らの手中内に他人を収めることにその本質があるように思われる。欲求と本能とは違う。人間はなんのために生まれて来たのか?本来の人間の姿とはどのようなものなのか?人間には欲求があることは事実であり、それを否定することはできない。それを認めつつも本能に目覚めて行くことが人間として生まれて来た本来の目的なのではないだろうか?否定するのではなく、認める。物事を違う側面から陰陽により捉える。マクロビオティックをそのように捉えて実行していくことが桜沢如一・里真先生や久司道夫・アベリーヌ先生、岡田周三先生、山口アルカン先生、松岡リベラル先生、田中カタリーナ先生、田中フローラ先生などのマクロビオティックの先輩方が日々実践していたことなのではないか?人間とは何か?その源泉を求めるために、是非、アレキシス・カレル著、桜沢如一訳「人間-この未知なるもの」の熟読をおすすめしたい。